いらない
大阪から戻り、へばっていた二日間。それが過ぎたら、連チャン病院でした。それも今日でお仕舞い。一番心配だった、ホルター心電図も一応無事終了。いつもの発作(泣いたり、動けなくなったり、震えたり…)の時の心電図を取るためだったのですが、必要な時には起きてくれず、…うーん、無駄に終わった気がします。コレ、結構いいお値段する検査なので、もう1回とか言われるのはイタイなぁ。結果が出るのは26日。そして、その結果を主治医に持って行くのが31日。どうなることやら。
今年最初の通院は心療内科。まず、カウンセリングでした。
主治医の先生には、遠出はいい顔されないので黙っていたのですが、カウンセラーさんには「大阪行ってきたんですー」とご報告。文楽目当てで行って、「壺坂」と「嫗山姥」が観たかった、と素直に話しました。
というのも、私が「壺坂」にすごく感情移入してしまい、その考えからなんか抜けきらなかったから。この演目は、何度も、何度も観てきた作品。かなりポピュラーなので。でも、こんな気持ちになったのは初めてで、他話したいことがあるわけで無し、言ってしまおうと思い話題に取り上げました。
「壺坂観音霊験記」
幼い頃視力を失った夫沢市と、沢市を献身的に支えるお里の物語。働き者で器量もいいお里は、人々に評判のいい女房。だけど、沢市は目は見えないし、疱瘡のあばた顔。毎晩、どこかへ出かけるお里に、いい人が出来たのではないかと疑いを持ってしまいます。
ある晩、沢市はお里に「好きな人がいるなら、正直に打ち明けて欲しい。」と頼むのですが、実はお里は毎晩観音様に沢市の目が治るように願掛けしていたのです。それを知った沢市は、お里に謝りますが、それだけ祈願しても治らないと愚痴をこぼします。
それならと、お里と沢市は揃って、観音様にお詣りに行くことにしました。沢市は三日三晩祈願すると言って、お里を一旦家へ帰します。
沢市は、つまらない疑いを持ったことを詫び、自分が死ぬことでお里に幸せになって欲しいと願いながら、谷へ身を投げます。
一度は家に戻ったお里ですが、嫌な予感がして、慌てて寺へ戻りますが、沢市の姿が見えず探したところ、谷底に夫沢市の遺骸を見つけてしまいます。
嘆き悲しんだお里は、自分も沢市の後を追って谷に身を投げます。
そこへ、観音様が現れて、沢市の信心深さと、お里の貞心によって、二人の寿命を延ばし、更に目も見えるようにしてくれたのでした。
とまぁ、文楽には珍しいハッピーエンドのお話なのですが、私は沢市の気持ちに感情移入してしまい、すっごく落ち込むというか、暗い考えに取り憑かれていました。
あぁ、こういう方法も有りなんだ。
いらない、役に立たないなら、いなくなっちゃえばいいんだ。
私、いらないもんね。
いなくてもいいじゃん。
それに反対する自分もいました。
何バカなこと考えているんだろう…私。
そんな風に思う自分もいるけれど、いらないでしょ、と主張する自分もいる。
沢市は、目の見えない自分より、他の男と一緒になった方がお里のためだと思って、谷へ身を投げた。自分は必要ないと思ったからですよね。そこに、私は反応してしまったようで、あ、私っていらないんだよな…いない方がいいんだよな…、と舞台を観ている時からずっと頭の中でこだましている状態になりました。
でも、だからといって、じゃあ身を投げようとか、死のうとか、何か実際に行動を移そうとは思っていないの。ただ、いらない、じゃあいなくなった方がいいんだ…、と思うだけ。
中途半端な考え方だな、と今なら思う。
だけど。
働いてもいない。
子供がいるわけでもない。
なのに、家にいるだけ。
何もしてない。
こういう存在に、どんな意味があるんだろうって思ってしまう。舞台を観る前も、ときどきうっすらと考えたことはあるけれど、「壺坂」を観てハッキリ形が頭に浮かんだ感じ。
仕事。
するのが当たり前だった。
もちろん、経済的な意味もあるけど、働くのが当たり前ってずっと思っていた。
なのに今は仕事…してない、出来ない。当たり前のことが出来ない。
それって、それって存在の価値があるの?
例えば子供が出来る。育てるために仕事を辞め、育児に専念する。これなら分かる。自分も納得が出来る。(もちろん、自分の理想は、仕事をしながら、子育てもするだったけどね。)
でも、今の私って、子供…いない。出来る可能性も無い。
仕事…復帰の見通しがつかない。
今…家にいるだけ。
楽は楽です、この生活。楽しいこともある。ブログに書いているとおり、あちこち遊びに行っているもんね、私。
でも、それにどんな意味があるの?私、これでいいの?駄目じゃん、私。このままでいい訳ないよ。それにテツさん。テツさんにどれだけ負担かけてるの?一緒にいる意味ある?むしろいなくなったら、保険金入るし、家も手に入る。生活、楽になるじゃない。だったら…。
今の、この生活の、自分を、認めることが出来ない。真っ向から否定する機会を、「壺坂」を観て得てしまったような気がする。
カウンセラーさんに言われた。「以前はどういう風に観ていたの?」と。前は、何故沢市が死を選んでしまうのか?と、否定的だった。お里側の見方をしていた、気がする。でも、今は頭でそれを思い出せても、理解出来ない、理解したくないと思ってしまう。だって、私はいらない、と自分で思っているんだから、だから、自分を消してしまったんだから、と。
ずーっとね。ずーっと、こんな風に思っている訳じゃない。ちゃんと否定する自分もいる。だけど、交互に、そう、波が寄せては返すようにくるの。でも、それは苦しい思いじゃなくて、あぁ、そうなんだ、と懐に落ちてくる感じ。そうだよね、って納得してしまう感情。
あ、んー、それとも、いらないんだと思うことで、逆に肯定しようとしているのかな、今の自分を。いらない存在だから、今ここにいるんだと思おうとしているのかな。
どちらにしても、マイナスな思考だよね。でも、考えているだけだからいいかな、とも思う。さっきも書いたけど、だからといってどうこうしようとは思っていない。死を思ったことは、うーん、まぁ無いと言っておく。
カウンセリングでは当然の如く、私がこう考えているからと言って、じゃあどうしましょうとは言わない。そう考える奥を探ろうとはするけれど。ただ、話せば話すほど、自分が混乱してきたのは確か。だって、二つの考えがあるのが分かって、話しているんだもん。なんか、理屈に合わないよね、それって。ホント中途半端で変な感じでした。
「舞台に酔っているせいもあるのでは?」と、人に言われたりもした。一瞬そうかな、と思ったけど、舞台に酔う感じとも違う。それまでの気持ちを明確にする切っ掛けにはなったけど、その舞台自体には惹かれていないから。
あ、いえ、舞台としてはいい舞台でした。大夫さんも大御所を持ってきただけあって、素晴らしかったし、人形もいい動きだった。一番の目当ては、「嫗山姥」だったのに、こちらはあまり記憶に残っていないくらいには、素晴らしかった。
でも、きっと、「壺坂」を観るたびに、このことは思い出すんだろうな、とは思います。観なくてもその考えに囚われるのだから。
それと。
大阪から戻ったら、1通の郵便が届きました。今年、大きく変わる職場。それぞれの新しい所属場所を通知する書類です。それを眺めて、ここに私のいる場所はあるのだろうか…?と思ってしまいます。やっぱり、ここでもいらないよね、と。
仕事をするのが当たり前と思っていながら、仕事をする場所に自分の居場所を見いだすことすら出来ない。こっちでもあっちでも、いらない、いらない、と思いがちな自分。
そう思う自分が嫌。でも、そう思ってしまう。
そう考えるのはおかしいと思う自分。でも、そう考えてしまう自分もいる。
波と同じく、その間を行ったり来たりしています。いつか、一つにまとまるのだろうか?